ルーヴル美術館の歴史において、ルイ14世が1682年にヴェルサイユへ王宮を移したことは、重要な転換点となりました。それまでフランス王権の中枢であったルーヴル宮。その後、宮廷としての機能を失い、代わって芸術や学問の拠点としての役割を果たし始めることになります。
この章では、【第1章: 壮麗なる建築物としての歴史】に続き、要塞から王宮、そして世界最大級の美術館へと変貌を遂げたルーヴル宮の歴史を、美術館設立という観点からたどっていきます。
王宮から文化拠点へ(1682年〜)
1682年、ルイ14世が宮廷と政府機関をヴェルサイユへ移転すると、300年以上続いたルーヴルの王宮時代は終焉を迎えました。しかし、それと引き換えに、文化施設としての新たな可能性が開かれていきました。
1672年よりすでにルーヴルを拠点としていたアカデミー・フランセーズに続き、フランス王立絵画彫刻アカデミー、建築アカデミー、政治アカデミー、科学アカデミーが次々とルーヴルに移りました。ルーヴル宮の一部に、芸術家たちのアトリエや住居、学術機関が入居し始めます。これにより、ルーヴルは文化と芸術の研究・発表の拠点として機能するようになりました。
また、ルイ14世は自身の芸術コレクションの一部をルーヴル宮に保管し、限られた範囲ではありますが、芸術家や研究者たちに公開していました。こうした動きが、後の「美術館」としてのルーヴルの原型をかたち作ることとなります。
啓蒙思想と美術館構想の萌芽(18世紀)
18世紀に入ると、啓蒙思想の広がりとともに、「芸術を民衆と共有すべきだ」という考え方が次第に強まっていきます。その象徴的な出来事が、1737年から始まった「サロン」の一般公開です。
このサロンは王立アカデミー主催による絵画と彫刻の展覧会で、当初は限定的な公開にとどまっていましたが、徐々に一般市民にも開放されるようになりました。芸術を鑑賞する機会が限られていた庶民にとって、これは革新的な試みでした。ルーヴル宮が、王侯貴族の空間から市民の文化施設へと一歩踏み出した瞬間でもあります。

フランス革命と美術館創設(1789–1793年)
1789年のフランス革命により王政が崩壊、貴族や教会の財産が次々と没収されました。これにより、王室コレクションや宗教美術品も国家の所有とされ、「芸術は特権階級のものではなく、国民全体の財産である」という新しい価値観が広がっていきます。
1791年、ルーヴル宮を公共の美術館とすることが正式に決まりました。これは啓蒙思想の影響を受けたもので、芸術を国民に開かれた教育・文化の資源とする革命政府の方針に基づいています。
1793年8月10日、ルーヴル宮に「フランス共和国中央芸術館(Musée central des arts de la République)」が開館します。芸術が王政の象徴ではなく、民衆のものとして位置づけられるようになったのです。
開館当初のルーヴル美術館は、セーヌ川沿いに伸びる「グランド・ギャラリー」が主な展示空間でした。また、公開されていたのは約500点の作品でした。
こちらの記事もチェックしてね ↙️
ナポレオン時代の拡張と「ナポレオン美術館」(1800–1815年)
ナポレオン1世はルーヴルを「ナポレオン美術館(Musée Napoléon)」と改名し、戦争で得たヨーロッパ各地の芸術品を収蔵しました。イタリアやベルギーなどから略奪された作品が中心で、コレクションは急速に拡大しました。また、展示空間の改修が行われ、美術館としての基盤が整備されました。しかし、1815年の敗北後、多くの略奪品が返還されました。
🔍ナポレオン美術館の名品
ラオコーン群像、メディチのヴィーナス、ベルヴェデーレのアポロン、ファン・エイク兄弟の『神秘の子羊』、メムリンクの『最後の審判』(当時はヤン・ファン・エイク作とされた)、ラファエロの『変容』、ルーベンスの『キリスト降架』、ヴェロネーゼの『カナの婚礼 』などが一堂に展示されていました
王政復古と19世紀の再整備(1815–1852年)
王政復古期には、ルイ18世とシャルル10世によって美術品の収蔵がさらに進みました。古代エジプト部門が新たに設立されたのです。シャンポリオンの指揮でエジプト美術品が充実し、「シャルル10世博物館」が一般公開。美術館としての機能が拡張された時代でした。
この時期には「ミロのヴィーナス」など後世を代表する名作もルーヴルに収蔵され、美術館の地位が再び高まっていきました。

ナポレオン3世による「グラン・デサン」の完成
ナポレオン3世によってグランド・ギャルリーと対称をなす翼棟がリヴォリ通り沿いに建設されました。ルーヴル宮殿とチュイルリー宮殿を接続する壮大な建築プロジェクト「グラン・デサン」の完成です。
この時期には新しい翼やパビリオンが建設され、美術館としての規模がさらに拡張されました。また、カンパーナ・コレクションなどが収蔵され、館内の展示は質・量ともに充実を極めていきました。
チュイルリー宮殿の焼失とルーヴルの近代化(1871年〜)
1871年、パリ・コミューンの動乱の中でチュイルリー宮殿が炎上。ルーヴルの建築構成にも大きな変化がもたらされます。ルーヴルはチュイルリー宮殿との繋がりを失った一方で、美術館としての独立性を確立しました。そして文化施設としての方向性を明確にしていくこととなるのです。
以降、装飾美術館やルーヴル学院といった機関が同居する複合施設として整備され、パリの中心に位置する文化の殿堂としての地位を確固たるものにしていきます。
現代のルーヴルと21世紀の挑戦
1980年代、フランソワ・ミッテラン大統領によって「グラン・ルーヴル計画」が始動します。その象徴として、ガラスのピラミッドがナポレオン広場に建設されたことはよく知られています。
これによりルーヴル宮殿は、パリの「歴史的軸線(axe historique)」──チュイルリー庭園からシャンゼリゼ大通り、凱旋門、さらにラ・デファンスの新凱旋門へと至る直線上──の起点として再定義されました。
そして2025年、エマニュエル・マクロン大統領により大規模な改修計画が発表されました。「ルーヴルの新ルネサンス」と題したこの計画。モナ・リザの専用展示室の新設や、セーヌ川沿いに新しい大型入口を設けるなど、来館者の動線と利便性を大幅に改善することが目的とされています。
2031年の完成を目指し、ルーヴルは21世紀にふさわしい芸術空間としてのさらなる進化を遂げようとしています。

こちらの記事もチェックしてね ↙️













